お手伝いの現場を早退して観に行ったのは、くじら企画の『夜が掴む』。
開場してちょっとしたくらいに劇場についたのだけど、
すでに劇場はすごい熱気で、人もたくさん。
受付にも、場内にも、すごく若い人達(学生?)がお手伝いしていて、
なんだかアットホームな雰囲気が漂っていた。
お客さんたちも、みんな温かい目で見てる人が多い気がした。
開演がせまるにつれて、どんどんどんどんお客様がやって来る。
小さい劇場に人がどんどん集まってきて、みんなできゅうっと詰めて座った。
ああ、こうゆう空間こそが、小劇場らしい熱気なんだよねー。
なんだか、懐かしいな。
最近は、なんとなくだけど、みんな大きめの劇場を使うことが多いのかな。
客席も椅子席が結構多い気がするし。
小さい劇場でやる劇団さんは、お客様もそこそこだったりすることが多いし、
大きい劇場でも、そんなにぎゅうぎゅうになってるのはあまりない気がする。
・・・この間観た、南河内万歳一座とかは、ぎゅうぎゅうだったけど。
もちろん、桟敷よりも椅子のほうが楽だし、
ぎゅうぎゅうよりも普通に詰まってるぐらいのほうがラクなんだけど、
小さい劇場で桟敷に座って、ぎゅうぎゅうになって観る、ってのも、
小劇場らしくて好きなんだけどね。
今日のくじら企画の芝居は、まさしく小劇場らしいぎゅうぎゅうっぷりだった。
芝居は、といえば、これがけっこう、ゾワゾワする芝居だった。
団地がどっと増えた、成長期と言われるようなちょっと前の時代。
とあるひとり(?)の男がとりつかれる妄想からくる殺人事件を軸にした話。
・・・といってしまえば軽い気がするんだけど・・・うまく言えない。
団地は、集団住宅だからこそ、それぞれの生活音が相手にも伝わってしまう。
団地の主婦たちは、それぞれ見栄なんかもありつつ関わって生きている。
だけど、主人公の男は、自分以外の人たちが立てる音に敏感で、
誰彼となく文句を言い、説教をし、怒鳴りこんでくるような人だ。
ぱっと見ていると、男の敏感すぎる神経質ぶりにいらっときて、
団地の主婦たちの”お互い様”という感覚と、
音を相手に聴かせることで見栄をはる、ということに正当性を感じるけれど、
だんだん男の妄想が広がっていくにつれて、
主婦たちの”幸せ”の押しつけっぷりを、暴力のように感じてしまう。
だれだって幸せにはなりたい。
けれど、その夢に見る幸せな風景は”人のモノ”で、自分のものではない。
あの幸せの中にいるのは私だ、という妄想にとりつかれない保証はないのだ。
この主人公が追い詰められていくさまを見ていると、
一人暮らしで、一人でのんきに生きている自分が、ふと怖くなった。
一人で暮らしていると、ふと寂しさを覚えることもある。
毎日のんきにやりたいことをしている私でも、そんなときがある。
そういうときに、なんだか暗い世界をのぞいたみたいに、ゾッとする。
そういうゾッとしたカンジがして、ゾワゾワしてしまった。
芝居を見終えてから、受付で「大竹野正典劇集成(1)」を買った。
家に帰ってから、パラパラと読んでみたけれど、
あとがきだったり、作品の解説だったり、付録の冊子だったり、
いろんなところに、いろんな愛情がいっぱいつまってて、
なんだか、劇場の雰囲気そのままの本だなぁと思った。うん、いい本だ。
(1)が売れれば、(2)、(3)と続けて出るらしい。出てほしいな。
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